番組収録中に突然襲ったパニック。えずき、涙、震え、息が止まる——渡邊渚さんが綴ったあの感覚は、ただの症状の報告じゃなかった。1人の人間の人生から「当たり前」を根こそぎ奪った存在への、静かで鋭い視線がそこにあった。
ふと、道場の鏡に映る自分の目を思い出したんです。組手で不意打ちを食らった直後の、あの一瞬。頭が真っ白になって、足がすくむ。呼吸が浅くなる。あれと同じ空気を、渡邊さんの文章から感じ取ってしまった。
2026年8月、NEWSポストセブンの連載エッセイ『ひたむきに咲く』で、彼女はこう書いた。
ある番組収録中に、出演者の1人が過去にセクハラをした相手に謝罪するという流れがあった。「ごめんなさい」と言って一旦終わったのだが、その後、他の演者が「それでいいのか? キスしろよ」と煽った。……この一連の流れが、私にはトラウマを想起する因子になってしまった。フラッシュバックを起こし、パニックになった。その場でえずいてしまい、涙が止まらなくなった。頭の中にトラウマが一気に駆け巡り、身体ごと当時にタイムスリップしたかのようになった。身体が震え出し、息ができなかった。
彼女ははっきりと付け加えている。「フラッシュバックを起こしたのはあの場にいた誰のせいでもないし、この文章はその演出の何が悪いのかを論じたいわけではない」。番組を盛り上げるためのノリだった。気遣ってもらう必要もない。でも、だからこそ最後に放った言葉が胸に刺さる。
そもそも大元を辿れば、悪いのはこんなトラウマを植え付けさせた人間だ。1人の人間の人生に、制限をつくって、当たり前の生活を奪った人が全て悪い。
この一文を読んで、私は思わずベンチプレスのバーを握りしめる感触を思い出した。重量を上げすぎてフォームが崩れた瞬間、肩甲骨のあたりが「もう無理だ」と叫ぶような感覚。身体が先に限界を告げてくる。渡邊さんのえずきや震えは、まさに心のフォームが崩れた瞬間の、身体からの正直なサインだったんじゃないか。
PTSDになって3年。治療を重ね、良い日が増え、「やっと当たり前の人間生活をおくれるような気がしていた」ところでの、一気の逆戻り。眠れないのに起き上がれない。外に出るのも一苦労。仕事も休む。彼女自身が「PTSDに罹患したばかりの頃のような生活に逆戻りしてしまった」と書くその絶望は、単なる体調不良の話じゃない。

武道を25年近く続けていて、一番怖いのは「不意打ち」だ。予測できるパンチならガードできる。でも、急に横から飛んでくるフックは、反射で体が硬直する。ある冬の道場で、後輩と軽く組んだ時に、相手が本気のカウンターを不意に繰り出してきた。私の脳が「危ない」と判断するより先に、足がすくんで息が止まった。その後、数時間は肩が凝り固まったまま動けなかった。あの時、師匠に言われた言葉が今も残っている。「身体は正直だ。心が蓋をしようとしても、身体は過去の痛みを覚えている」。
渡邊さんの場合、その「不意打ち」が「キスしろよ」というヤジだった。昔の彼女ならスルーできたはずの言葉が、今は「嫌と言えない状況や空気を醸成しているように思えて、とてもグロテスクに感じた」。この「グロテスク」という表現の重み。ただの不快感じゃない。空気そのものが、過去のトラウマを増幅させる装置になってしまった感覚。芸能界、特にバラエティの現場では「ノリ」が命だ。笑いを取るために少し過激な方向に舵を切ることは日常茶飯事。でも、その「日常」が、誰かにとっては日常を奪う引き金になる。
彼女が何度も強調するように、現場の人を責めているわけじゃない。むしろ、責める矛先を明確に「大元」に向けているところが、私には強く響いた。1人の人間の人生に制限を作り、当たり前の生活を奪った人間が全て悪い——この言葉は、被害者であり続けることを拒否しつつも、加害の根源を決して曖昧にしない、強い意志の表れだ。

似たような「蓋がパカっと開く」瞬間を、私も筋トレの世界で何度も見てきた。怪我から復帰した選手が、ふとした動作で過去の痛みを思い出して動けなくなる。フォームを修正しても、脳が「危険」と記憶している限り、完全には消えない。渡邊さんが「どれだけ治療をしても、どれだけ時間が経っても、トラウマが私の中から消えてくれることはないし、PTSDは一生“完治”しない」と書くのは、甘い希望を捨てた上での、リアルな覚悟だと思う。
それでも彼女は、エッセイを綴り続ける。電車で倒れた経験も、引きこもる日々も隠さず書いて、未来の誰かに届くようにしている。この「発信し続ける」という行為自体が、奪われた日常を少しずつ自分の手に取り戻す、忍耐の組手なんだろう。
以前、別の記事で梶原叶渚さんの瞳の揺るがなさについて書いた時も思ったんだけど、人は限界を超えた後にこそ、本当の「守り」の形が見えてくる。渡邊さんの場合、守りは「誰のせいでもない」と線を引きつつ、「全て悪い」と根源を指し示す、そのバランス感覚にある。
ふと思い出した本がある。メンタルの回復過程で、身体と心のつながりを丁寧に解きほぐしていく一冊。似たような「不意打ち」を経験した人なら、ページをめくりながら「あ、これ自分の身体が言ってたことだ」と気づくかもしれない。『トラウマと身体の記憶』みたいなタイトルの、静かに寄り添うような内容のものだ。
関連して思い浮かんだもの
身体が覚えている痛みを、どうやって少しずつ手放していくか。そんなことを考えながら手に取った本のひとつです。
ベッセル・ヴァン・ダー・コーク『身体はトラウマを記録する』

渡邊さんがこの3年間、何度も「良くなったと思ったら崩れる」を繰り返してきた事実は、重たい。でもその重さを、彼女は自分だけのものにせず、言葉にして外に出している。それが「ひたむきに咲く」という連載タイトルの本当の意味なんじゃないかと思う。
あなたは、自分の「当たり前の生活」を奪われそうになった時、どんな身体のサインに気づくだろうか。それとも、まだ蓋をしたまま、気づかないふりをしていないだろうか。
文・ソフトマッチョ(筋トレ25年/アマチュアフルコン空手)
※本記事は渡邊渚さんの公開エッセイおよび報道を基に、筆者の観察と経験から独自に考察したものです。事実関係は公式情報をご確認ください。










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