本番の始まりを、曲の一音目や開始の合図だと思っている人は多い。先に崩れるのは、立ち位置へ入る最初の一歩の足裏だ。かかとが床から離れたまま歩き始めると、そのあとの間も呼吸も、もう追いつかない。
1986年、BOØWYが初めて日本武道館に立った公演の開演前に流していたのが、布袋寅泰のインスト「PROLOGUE」だった。本体の一曲目より前に、開始だけを置く音。ライブ盤では歓声が乗っていたが、今回そのオリジナル音源が初めてCDに載る、という話が出ている。
ここで残すのはバンドの伝説ではない。開演より前に「開始」を置く、という作り方だけだ。身体側は逆をやりやすい。合図の前に、足だけが本番を始めてしまう。
本番開始前に足裏の接地が先に崩れる
ここでいうプロローグは、前置きの話ではない。本体より前に置かれた開始のことだ。会場のSEも、試合前の歩行も、発表の名前呼びも、本体の技術より先に「もう始まっている時間」がある。
その時間に、足裏は二通りに分かれる。かかとと母指球が同時に床へ残っているか。つま先だけで床を蹴ろうとしているか。後者だと、歩き始めの時点で体重は前へ逃げている。見た目は普通の一歩でも、接地はもう本番用ではない。
フルコンの試合でも同じことが起きる。技の巧拙より先に、開始線へ入る数歩で足が軽い選手がいる。軽い、ではなく浮いている。かかとが床を放棄して、最初の攻撃の前に自分から間合いを詰めてしまう。
オープニングでやってはいけない最初の一歩

やってはいけない動作
立ち位置へ入る最初の一歩を、つま先だけで踏むこと。かかとが遅れて降りてくる歩き方は、開始前なのにすでに攻めの姿勢になっている。
開演前のSEが長いほど、待っている側は身体を前へ出したくなる。音が「始まる」と言っているのに、自分はまだ出ていない。そのずれを、足が先に埋めにいく。沈黙が長いほど、かかとは浮きやすい。
控室の椅子から立ち上がった瞬間も同じだ。試合当日、自分の番が近づくと、まだ名前は呼ばれていないのに足先だけが床を蹴っていることがある。座面を離れた時点で、もう接地は終わっている。歩き出す前に、一歩目は消費されている。
見るタイミングを、本番の最中に置かない。最中に気づいた足裏は、もう修正の対象ではなく結果だ。
自分の足で確認する
いつ見るか:名前を呼ばれて立ち位置へ入る直前。歩き始めの一歩目の前。
どこを見るか:足裏の接地。かかとと母指球の両方。
何が起きていたら崩れているか:かかとが浮き、つま先だけで床を蹴ろうとしている。
判定は一回でいい。両方ついているなら、その一歩は開始前の歩として使える。かかとが消えているなら、技術の話へ進む前に足を戻す。戻す場所は肩でも視線でもない。床に残っていないかかとだけだ。
最初の一歩の前にかかとを戻す
開始の音や合図は、身体の外側にある。足裏の接地は、その外側の合図より前に自分で置ける。プロローグが先に鳴る作りと同じで、本体の一打目より前に、床へ体重を乗せる時間を一拍だけ作る。
やり方は小さくていい。立ち位置の三歩手前で一度止まる。止まる、ではなくかかとを下ろす。母指球だけに乗ったまま停止すると、それは静止ではなく前傾の固定になる。かかとが床を知ってから、次の一歩を出す。
道場でも舞台袖でも、待つ時間が長い日ほどこの一拍は効く。待ち時間を気合で埋めると、足先が先に仕事を始める。気合の前に床へ返す。開始は、音より先に足裏側へ置ける。
同じ悩みで来る人に渡すのは、開演の物語ではない。最初の一歩の前に、かかとが床にあるかどうかだけだ。


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