試合の場に立てなくなると、最初に崩れるのは技ではない。足の置き場だ。次に入る場所が無いと、重心が前にも後ろにも置けなくなる。
「五輪王者になるため」「ルーツはないがモンゴル連盟から挑戦機会頂いた」
事実はここまでで足りる。国籍の是非をここで裁く必要はない。見るのは一つだけだ。試合機会が閉じたあとも、身体がまだ「次の一本」に入ろうとしている、その間である。

試合機会が閉じたあとに残るもの
増山選手は90キロ級で世界団体優勝、グランドスラム優勝を重ねた。2023年、国際大会で計量を断念し、強化指定と世界選手権代表を外れた。その後100キロ級へ上げ、国内では再び勝ち切った。それでも日本代表の本番の席は、簡単には戻ってこない。
ここで身体側に起きやすいのは、諦めではない。稽古はできる。担ぎも入る。なのに「本番の時計」が鳴らない。道場では相手がいる。試合では枠が無い。このずれが続くと、足が半歩前に出たまま止まる。
フルコンの道場でも似た場面はある。試合が決まらない時期、打ち込みは速いのに、構えのかかとが床から浮く。技は残っている。入る場所が無いだけだ。そのとき身体は、新しい国籍を欲しがっているのではない。次に組める場を欲しがっている。
代表から外れたあとの身体がやる仕事
減量に失敗した身体は、その後も「落とすこと」を覚えている。階級を上げても、肩はまだ細い側の感覚を残すことがある。逆に、上げた体重の接地が安定するまで、背負投の入りが遅れることもある。どちらも道徳の話ではない。体重と間合いの記憶の話だ。
増山選手の選択を、逃げと読む人もいるだろう。逆に、機会をもらった側の合理と読む人もいる。観察としてはどちらも後追いだ。先に起きているのは、本番の席が無い状態で、身体がまだ王者の間合いを捨てていない、という事実である。
「ルーツはない」という言葉は、 sensō ではなく手続きの説明に近い。身体はルーツでは動かない。次の計量、次の組み手、次の一本で動く。連盟から機会が出た、という一文は、その身体に席を渡す側の話だ。
試合機会が来ないときに自分の足を見る
仕事の発表、社内の枠、試合の選考でも同じことが起きる。準備はできている。呼ばれない。そのとき肩を上げて待ち続けると、呼ばれた瞬間に呼吸が浅くなる。かかとを下ろして待つ方が、入ったあとの一動作は遅いようで、実際は崩れにくい。
モンゴルという行き先はニュースの固有名にすぎない。残る問いは短い。本番の席が無いとき、身体はまだ入ろうとしているか。入ろうとしているなら、その衝動を否定せず、かかとを床に戻してから次の場を選ぶ。増山選手の表明は、その選択を公にした形に見える。


コメントする