道場のマットに膝をついたとき、ふと足の甲が熱くなる感覚が蘇るんです。フルコンの組手で下段を連続で入れたあの感触。2026年8月3日、極真館の盧山初雄会長が78歳で逝去された報を聞いた瞬間、私の中でその熱が一気に広がった。なぜ今、この訃報がこんなに胸に刺さるのか。単なるレジェンドの死じゃない。現役時代に下段廻し蹴りと三日月蹴りで一世を風靡した男の、目の奥に宿っていた「諦めない」という本音が、今も生きている気がしてならないからです。

私はアマチュアフルコン空手をかじった経験がある。25年の筋トレ人生の中で、組手で下段を徹底的に鍛えられた時期があった。ある冬の夜、道場で先輩に「お前の下段はただの棒だ。腰を落として、相手の太ももに『食い込ませる』感覚を作れ」と何度も蹴らされた。最初は痛みで足が上がらなくなった。でも、繰り返しの中で気づいたんです。下段って、派手な上段廻し蹴りみたいに観客を沸かせる技じゃない。地味で、地道で、相手の根っこをじわじわ削る技なんだと。
盧山会長の下段廻し蹴りを映像で見たとき、まさにその「食い込ませる」感覚が視覚化されていた。膝の角度、腰の捻り、着地の瞬間の目つき。決して力任せじゃない。相手の重心を崩すための計算された忍耐が、そこにあった。三日月蹴りもそうだ。弧を描くように足を振り上げ、相手の脇腹や顔を狙うその軌道は、ただの攻撃じゃなく「守りながら攻める」バランスの極致だったと思う。
ファンの間では「ローキックの鬼」という異名が今も語り継がれている。でも私は、鬼というより「静かな職人」だったんじゃないかと感じる。大山倍達総裁の直弟子として、極真の分裂期を経て2002年に極真館を立ち上げた決断。組織のしがらみの中で「真の武道空手」を守り抜こうとした姿は、組手でガードを崩された瞬間に「ここで折れない」と踏ん張るメンタルと重なる。
実際に道場で似た場面を思い出したんです。後輩が試合で連続して下段を食らって足が動かなくなり、泣きそうな顔で「もう無理です」と呟いたとき。私は無理に励まさず、ただ隣で一緒に屈伸をしながら「足が熱くなってるうちがチャンスだぞ」とだけ言った。痛みを「敵」じゃなく「味方」に変える。盧山会長が病気と闘い続けた最後の日々も、きっとそんな感覚だったんじゃないだろうか。度重なる大病と「気高く」闘ったという表現に、私は武道特有の「本音の見極め」を見る。
業界の人間関係の機微で言えば、極真は分裂を繰り返してきた歴史がある。盧山会長は松井派を離れ、財団法人極真奨学会を引き継ぐ形で極真館を創った。派手な対立を煽るのではなく、静かに「大山総裁の遺志」を形にしようとした姿勢。後輩からは「ロウ先輩」と親しまれ、明るい人柄だったという証言も多い。強い男ほど、実は柔らかい支え合いを大切にする。筋トレで限界を感じたとき、フォームを根本から直すきっかけになったのは、いつも誰かの何気ない一言だった。一人でベンチプレスを押し続けるより、隣でスポッターが「あと一回」と目で合図してくれる方が、はるかに重い重量が上がる。

盧山会長の目つきを、残された写真から想像してみる。現役時代の組手写真では、決して目を見開いていない。むしろ半眼に近い、集中しきった静けさがある。三日月蹴りを放つ瞬間のまばたきの少なさ。あれは「勝つ」ための目じゃなく、「自分を守りながら相手を崩す」ための目だった気がする。私自身、ベンチプレスで自己ベストを狙ったとき、限界直前に目をつぶりそうになった経験がある。でも「目を開けろ。フォームを見ろ」と自分に言い聞かせて、ようやくあと一回を押し切った。あのときの目の感覚が、盧山会長の現役写真と重なった。
人間ドラマとして見ると、78歳という年齢でなお会長として後進を見守り、病と闘いながらも「極真空手は永劫不滅だ」と大山総裁の言葉を胸に生きた人生は、ただの強さじゃない。守り、支え合う強さだ。アマチュアの私が道場で学んだ最大の教訓もそこにあった。「強い蹴りは、弱い自分を認めた先に生まれる」。下段を極めた男の最期は、まさにその体現だったように思う。
この話を読んでいてふと思い出したんですが、限界と向き合うとき、自分の体の声を丁寧に聞く習慣が役に立った。似た経験をした人なら、大山倍達の精神や極真の哲学が詰まった書籍が、静かに背中を押してくれるかもしれません。たとえば『空手バカ一代』の世界観を改めて読み返すと、盧山会長が守り続けたものがより鮮明になる。

盧山初雄という武道家が残したものは、技の名前じゃない。下段廻し蹴りに込められた「じわじわと根を削る忍耐」と、三日月蹴りに宿る「弧を描きながらも中心を見失わないバランス」。そして何より、病と闘いながらも気高くあった最後の目つきだと思う。
あなたは、自分の「下段」をどこに置いていますか? 派手な勝利を追い求める日々の中で、地味に積み重ねる忍耐を、ちゃんと感じ取れていますか? 道場のマットでも、ジムのベンチでも、日常の小さな踏ん張りでもいい。盧山会長の人生が、静かに問いかけてくる気がしてならない。
押忍。
ソフトマッチョ


コメントする