ラジオを聴きながらふと思ったんです。小木博明さんがW杯決勝を観て吐き出した違和感は、ただの愚痴じゃなくて、体を動かしてきた人間特有の「本物の痛み」を見抜く目だったんじゃないか、と。
なぜ今これが胸に残るか。優勝を決めた試合の後に残るのはトロフィーじゃなく、選手の仕草や表情ににじみ出る「本気度」だからです。小木さんの言葉が、そこに光を当てていた。
7月23日深夜のTBSラジオ「木曜JUNK おぎやはぎのメガネびいき」で、小木博明さんが北中米ワールドカップ決勝・スペイン対アルゼンチン戦について語った。スペインが延長の末1-0で勝ち、2度目の優勝。アルゼンチンは連覇を逃した一戦だ。
小木さんはアルゼンチンのラフプレーや、反則を受けていないのに大げさに倒れ込む仕草、試合後の殴り合いを挙げ、「あれよくないよ。ダメよ」「サッカーだけなんだよ、ああいうスポーツマンシップがないやつ」「これから直さないといけない」「スポーツマンシップが1つもないんだよ」と苦言を呈した。一方で「キレイなサッカーをする日本は素晴らしい。フェアプレー精神すごいじゃん」と日本を称賛している。

矢作さんも「シミュレーションってファウルがあんのもサッカーぐらいだからな」と同調した。足を平気で踏んだり削ったり、報復で足の裏を使う行為、わずかな接触で「痛い痛い」と転がり回るアピール。ボクサーならやらないし、ラガーマンは相手のせいにしない――そんな比較まで飛び出した。
ここからが面白い。小木さんの指摘は、表面の「汚いプレー」批判を超えて、選手の体の使い方と心の機微に踏み込んでいる。大げさに痛がる仕草って、実は「自分を守るための演技」と「相手を揺さぶるための計算」が混ざっている。武道の目で見ると、それが一瞬でわかるんです。
フルコン空手の組手で、相手がわざと大げさにのけぞって「反則だ!」とアピールしてくる場面があった。実際は軽い接触なのに、床に手をついて顔を歪める。そのときの自分の体感は「あ、今のは本気じゃないな」という違和感だった。ガードを崩しすぎた瞬間の相手の重心のブレと、演技のときの重心の残り方がまったく違う。本物の痛みは体が先に縮こまる。演技は視線が審判に向いている。

筋トレでも似たことが起きる。ベンチプレスで限界近くまで追い込んだとき、肩や胸に本物の焼けるような感覚が走る。フォームが崩れる直前の微かな震えは嘘をつけない。逆に「今日は調子悪いから」と早めにバーを下ろす人の顔には、どこか余裕が残っている。小木さんが感じた「サッカーだけ」という違和感は、この「本物の限界と演技の限界」の差を、観戦者として鋭く捉えた結果だと思う。
日本が称賛された理由もここにある。クリーンなプレーを貫く姿勢は、ただルールを守っているだけじゃない。相手を尊重しつつ、自分の技で勝負するという「覚悟の仕草」が、ピッチ上の表情に出ている。アルゼンチンの報復行為や試合後の殴り合いが「終わった後も」続いた点を小木さんが特に問題視したのも、試合が終われば競い合いは一旦リセットされるべきだという、スポーツの根源的な人間関係の機微を突いている。
道場で後輩が試合後に負けた相手に詰め寄ろうとしたとき、先輩として「今は握手だ」と止めた経験がある。勝っても負けても、その場の空気を整えるのが本当の強さだと感じた瞬間だった。小木さんの「これから直さないと」という言葉には、そうした長い目でスポーツを育てる視点がにじんでいる。年齢を重ねてラフプレーが目につくようになった、という彼自身の変化も正直で、そこが温かい。

ファンの反応を眺めても、「小木さんの言う通り」「サッカーの闇だよね」と共感する声が多い一方で、「勝つためには必要悪」という意見も当然ある。でも小木さんが強調したのは「日本のキレイなサッカーが素晴らしい」という点だ。勝敗を超えた価値を、芸能人として自然に口にしたところが、業界の人間関係を長く見てきた目にも新鮮に映る。
スポーツマンシップはルールブックに書いてあるものじゃなく、選手の仕草や表情、試合後の態度にこそ表れる。小木さんがラジオで吐き出した違和感は、観る側が「本物」を見分ける目を持てるか、という問いかけでもあった。
あなたが観ていて「これは演技だな」と感じたスポーツの仕草や、逆に「本物の強さだ」と胸が熱くなった瞬間はありますか? よかったら聞かせてください。
似た経験を持つ人にとって参考になるかもしれない本として、スポーツの精神性を扱った『武道の哲学』などが手元にあると、ふと読み返したくなることがあります。
参考までに:スポーツと心の機微を考える一冊
武道の哲学(関連書籍)

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